KYOTO GRAPHIE2025鑑賞記
- 雄飛 星野
- 4月15日
- 読了時間: 5分
更新日:4月15日

関西大阪万博の初日だった13日、混んでそうな(実際に込んでましたね)万博にはいかずにKYOTO GRAPHIE2025に行ってきました。降りしきる雨が散りかけの桜の花びらを一層葉桜にする最中でした。もちろん、一日では回りきれませんでしたが、8カ所10展示回ることができました。戦後80年、世界では今も続く紛争に関連したものからオーバーツーリズムやジェンダーへのまなざしなど多種多様な表現がなかなか楽しめました。去年よりわかりやすい作品が多かった印象ですが、もしかしたら自分の鑑賞力が伸びたのかもしれません(ひそかにそれを信じております笑)。

今回は気になった3つの展示に関して備忘録として感想を少し書いておこうと思います。1つめは目玉企画でもある京都新聞地下で展示されていたフランス人アーティストJRのクロニクルシリーズです。街で出会った様々な仕事や生活をしている人たちのポートレートをスタジオで撮影してそれを組み合わせて一つの国や街を表現する作品でした。撮りおろしされた「クロニクル京都2024」は京都駅ビル壁部に展示されており、眺める人、作品として気にせず「壁」として寄りかかる人、素通りする人、、、作品を背景に町ゆく人と作品の中の人たちとの本来あるはずもない関係性を思わず考えてしまう体験は新鮮なものでした。パブリックアートとして多くの人が立ち止まり、写っている一人一人を、全体を往復しながらそこに自分を(自分に似た人を)見出す作業をせずにはいられませんでした。

そして、一人一人のポートレートの質の高さが集合体として再構成されたときに際立ちます。多様さが許容されていて、それでかつ、一つの集合体としてのまとまりも表現されています。一人一人に向き合って撮影してきた成果なのかもしれません。
京都新聞での展示では京都で撮影した人たちを京都新聞の上に載せていくという印刷工場跡ならではの取り組みも面白かったです。新聞紙を「個々人と直接関係ないかもしれないがシームレスに接している世の中」と見立てているように見えました。インスタレーション部分はクロニクルシリーズの一部であるにも関わらず正反対の鑑賞体験を得られて「集合」と「個」が行き来する新たなポートレートの世界を垣間見た気がしました。

2つ目は嶋臺ギャラリーでの「The Anoymous Project presents Being There」、リー・シュルマン&オマー・ヴィクター・ディオプによるコラボレーション作品です。ステイトメントのなかに1950~60年代に北米で撮られた写真のなかで「不在を撮る」という文言がありました。たまたま少し前に神村光洋さんの「不在を撮る」という写真集を読んでいたことがあり目の前の写真に対して無意識にも同様の読み方をしようと試みました。ただそこにあるのはよくある家族写真。共通しているのは愉快な同一の黒人がいること。神村さんの写真集では「不在」が「不在」として写されていたが目も前の作品群には「不在」が見いだせません。そのまま展示会場を進んでいくと運よく作者の2人が会場にいて取材対応していました。そこで黒人がディオプ自身であり、70年も前に目の前の人が写っているわけがないということに気が付きました。写真が(おそらく)合成であること、「不在」を写真が持つ真実性という先入観により実在で描き出すという2度の「裏切り」が作品の価値を上げているように感じました。戦後の白人社会に関しては実感がないですが、ディオプ自身がスタジオの中でポーズをとっているとしてもその時代の白人と時空を超えてコミカルに笑顔で平和的に交わっている(=交わるべきだと思っている)ことがひしひしと伝わってきました。撮られた時には不在だったはずなのにそこに溶け込む黒人の姿が人種差別の存在そのものをあやふやにさせるような気さえしました。写真の真実性、現実性、瞬間性という先入観が裏切られると同時にその先入観によって成り立っていることに写真表現の奥深さを再認識させられました。


最後はマーティンパーによる「Small World」です。有名なシリーズで世界中の観光地で観光客を撮るというシリーズです。自分自身もマスツーリズムへの疑問や批判はずっと持っていてそこに合致する過去のレファレンスとしての鑑賞でした。どうしてみんなが同じ写真を撮ろうとするんだろう。シンボリックな観光ランドマークとの記念撮影はどんな意味があるのか。その土地へ行ったことの証明が必要なのか。雑誌やテレビなどメディアで取り上げられるイメージと目の前のイメージとの乖離に人々はどう感じるのか。それは観光客が無心に観光ランドマークに群がりカメラやスマホを向ける姿から批判的に考えることができました。おそらく、写真を撮る際に声をかけて指示を一切していないと思われるスナップショットの数々は瞬時に撮影しているはずなのに画面が整理され図形的な美しささえありました。これまで見てきた2つは作り上げた世界でしたが、パーのものは目の前に広がる滑稽な景色をそのまま写し取った報道的な手法です。にもかかわらず、報道写真(主にここでは日本国内の潮流)に見られる観光地の賑わいの写真(声かけをして撮られていることも多い)と明らかに違ういやらしさのない訴求力が備わっていました。


以上、鑑賞した10作品から3つをピックアップして感想を書き留めてみました。京都グラフィーは京都の古民家を、安藤忠雄の建築(Times)を、京都駅を作品のキャンバスにするという展示空間との相互作用が楽しめるのが魅力の一つでした。昨年と同じ場所での展示でも作品が違えば見せ方、空間の使い方が全く異なり飽きずに楽しむことができます。桜や新緑が眩しい春の日差しのもと、京都の町を散歩しながら作品が見れる京都グラフィー、また来年も行きたいと思います。
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